マルクスその可能性の中心
- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/07/05
- メディア: 文庫
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そこで入門として本書を読んでみたのですが、内容が難しいこと難しいこと。なかなか理解が進みません。私もまだまだですな。
逆説的な言い回しに慣れていないというか、言い換えの価値に理解が及んでいないというか、着想の境地に達していないわけです。
いつかもう一回読みます。その時は全て理解してみせる。
あ〜原書はまだまだ先かなあ。
- 人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである。(マルクス)
- 本質的な思想家は一つの課題しかもたない(ハイデッガー)
- どんな反体系的な思想家も、内的な意味で体系的であり、そうでなければ彼は本質的な思想家ではない。要するに、それは彼がものごとをラディカルに考えることをしなかったということを意味するだけだからだ。
- 思惟することが問題である場合には、なされた仕事が偉大であればあるほど、この仕事のなかで「思惟されていないもの」、つまりこの仕事を通じ、またこの仕事だけを介して「まだ思惟されていないもの」としてわれわれのもとに到来するものは豊かである。(ハイデッガー)
- 俺があの男を憎むのは、あいつは俺に親切なのに俺はあいつにひどい仕打ちをしたからだ、とドストエフスキーの作中人物はいう。これは金を借りて返せない者が貸主を憎むことと違いはない。つまり罪の意識は債務感であり、憎悪はその打ち消しであるというのがニーチェの考え方である。
- 簡単にいえば、商人資本は、ある地域で安く買ったものを、別の地域で高く売ることによって成立している。
- マルクスの考えでは、労働力の価値は、その生産に要する社会的に必要な労働時間である。いうまでもなく、この社会性は貨幣形態から与えられるのであって、貨幣形態を考えずに社会的に必要な労働時間を考えることはできないのである。
- 資本は世界を文明化するためにではなく、自らが存続するために技術革新を運命づけられているのである。ほとんど無益と思われるような技術の革新も、資本が存続するためにこそ不可欠なのである。
- 衝動とは、”欠如”からくるものであり、それはすでに表象であり、「意味するもの」なのである。
- 思想家が変わるとは文体が変わるということにほかならない。理論的内容が変わっても文体が変わらなければ、彼はすこしも変わっていない。
(マルクスその可能性の中心より)
- 他人の死が、不在ではなく確実に死であるためには、なにか別の条件が必要なのであり、したがって死は、たんに物理的な問題でもなければ観念の問題でもない。死はいわば制度の問題である。葬制をもたない社会は存在しない(ヴィーコ)という事実がそれを証し立てている。
- 一旦それが定着すれば、それがなかったときとはちがった言語の体系が形成されており、他の語の意味も変形されている。
(歴史について-武田泰淳)
- 漱石論の再考は、われわれがその上にある知的地盤そのものの解体を迫るのである。
(階級について-漱石試論Ⅰ)
- しかし、マルクスの「明察(インサイト)」と「盲目(ブラインドネス)」を数え上げても無益である。ボール・ド・マンがいうように「明察」は「盲目」のなかでのみ可能であり、だれもこの条件をまぬかれることはできないからである。
(あとがき)
断片的には分かるんですがね。
文脈という意味で全体像が見えていないんですわ。
これも仮説力の不足かしら・・・。